佐江衆一さんとの出会い
1985年1月31日 読売新聞 夕刊「文化」欄
車内暴力を考える−管理社会のひずみ噴出−豊かさの影、積もる不満
金属バット事件ではじまった80年代の暴力は、家庭内暴力から校内暴力へ、そして一昨年、横浜の浮浪者襲撃事件に見るように街中へと出た。この事件の直後、地域ぐるみのパトロールなど管理体制ばかりが強化される中で、鬱積(うっせき)した若者の不満が別の場所へ突出するだろう予感を私は持った。その後、校内暴力は減ったと伝えられるが、最近頻発する車内暴力は、管理社会の死角である街中の空間へ現代の暴力がにじみ出た感じである。
モノ以外には無関心
もっとも電車内での不心得者の行動は、いまにはじまったわけではない。しかし東京の地下鉄で起きたような昼下がりの車内で、一言注意した老人へ直ちに暴力をふるう若者の行為は、乗客注視の中で止める者の一人としていなかっただけに、都市の砂漠のような密室で起きた事件である。やさしさや気配りが強調され、”怒れる若者たち”のいなくなった平穏な社会で、なぜ若者の行動が暴力に短絡するのだろうか。
現代の消費社会を「気づかいの社会であると同時に抑圧の社会であり、平和であると同時に暴力の社会」と指摘したのはフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールだが、彼によると、現代の暴力は、豊さと安全が一定の段階に達した時ににじみ出る統御不能な暴力だという。突発的で不可解な現象であり、そこには消費社会の欲求充足と生活安定という目標からはみ出した何かが存在しているというのだ。なるほど私たちの社会には、進歩や豊かさとは矛盾すると見える暴力が形と場所を変えて次々におこる。生活が豊かになれば暴力はなくなるという伝統的な考え方では理解できないのだから、豊さそのものの根本的矛盾として現代の暴力を考えるほかはない。
だれもが中流意識をもつ豊かな日本で、とくに若者は氾濫(はんらん)するモノを消費することで自己を表現したと感じ、考えることより感じることを優先させ、モノ以外には無関心である。情報化社会にも関わらず、ナマ身の人間と人間を結ぶ言葉は失われ、それ故のフラストレーションが鬱積している。浮浪者襲撃事件の少年たちが路上の人間をモノとしか感じられず、暴力をふるったとき「人間の骨がボキッと折れてスカッとした」と驚いたのは、言葉ではなく暴力の短絡した行為でしか人間を感じられない、まことに悲しい象徴的な科白(セリフ)だった。
中年男も殴り合い
車内で注意した老人へわびる言葉でコミュニケーションをとれない若者もまた、弱者であるはずの老人をモノとみなすようにして自己の不満を発作的な暴力にしか表現できなかった。テレビや漫画で笑いやギャグを好む若者が、他者との触れ合いの言葉は喪失しているのである。
しかし、モノの豊かな社会で人間の言葉が失われ暴力に短絡する傾向は、若者に限らない。
実は昨年暮れ、私も車内暴力に遭遇した。週末の終電車で、微醺(びくん)をおびたサラリーマンで混雑した車内だった。こうした車内でいつも私は、通勤時の満員電車では感じない、ある種の殺気を感じる。豊かさの中にいる男たちの形にならぬ根深い疲労やいらだちが、休日前夜の安堵(あんど)感のアルコール飲料の酔いに誘われて、体内から漂い出ている殺気。恥ずかしい話だが、私もまた爆発寸前の自分をあやすように酔いの中にいる。家庭と職場との中間の公共の密室で、だれもが自己の内部の得体の知れない暴力的なものとつきあっているのではあるまいか。
私の目撃した事件はこうしたなかでおきた。肘(ひじ)が触れたというだけで、職場では課長か係長の地位にあると思える上等の背広姿の分別盛りの男たちが、鼻血を流す殴り合いになった。わずかな言葉でコミュニケーションが成立するのに、中年の男たちが自らの殺気をむき出しにして暴力ざたに及んだのである。
これを、世代を問わず公衆道徳の欠如とするだけでは違うように思う。他人と体が触れてわびることの少ない日本人は世界でも珍しく、単一民族のせいか公共の場での他者意識が希薄で、また言葉によって自己の正当性を激しく主張することもないが、今日の車内暴力はそうした国民性だけではない。人種の坩堝(るつぼ)であり貧富の差のはなはだしいニューヨークの悪名高い地下鉄の車内暴力とも、明らかに異質だ。禁煙車内で注意された年輩者が相手に暴力でこたえる行為なども多くなっているように、管理社会のひずみが豊かな暮らしのフラストレーションの殺気と合致し、突然の暴力の形で噴出するのである。
怖い管理体制強化
私は人間の性が生まれながら善だとは思わないが、注意する側も殺気をむき出していて、言葉が不足しており、ユーモアがないのである。さてそこで、周囲の者のとるべき態度だが、私の場合すぐに割って入った。だがこれは勇気とか正義とかより、私に護身武道の心得があったからで、それにしても大勢の乗客がいなかったら傍観したかもしれず、無関心を装う大衆を非難できない。周囲の者もまた自らの孤独な殺気をもちこたえて、無関心の殻にとじこもっているのである。
しかし前記の事件で、暴力をふるった若者たちに直ちに逮捕状が出、管理体制がにわかに厳しくなったのも、いささか異常といっていい。管理社会が厳しくなるほど、豊かさの不満と殺気が管理のはざまへ必ずにじみ出る。ひょっとすると、一人の不心得者を大勢の乗客が袋だたきにする社会正義という名の暴力が弥漫(びまん)するかもしれない。これもまた怖いではないか。