自己紹介(茨城への引っ越し前編)

 (1)手話を始めたのは?

 1981年2月、東京の西の端の方にある日野市という町の、ひの手話サークルに入ったのが手話との出会いでした。「国際障害者年」という年でした。
 もうかれこれ18年と6ヶ月。いろんなことがありました。長いだけじゃダメなのが、この世界なのかもしれませんが、「続けてきた」ことに、ちょっとだけ自分を誉めてやりたい気持ちです。

 (2)手話を始めたきっかけは?(990812木)

 これもよく聞かれる質問です。そして、これを聞かれるのが一番苦手。
 「特にありません」「手話でも点字でも、車椅子を押すのだって、何だって良かったんです」
 「たまたま国際障害者年だったから、障害者関係の「ひの手話サークル」に入ってみた」というのが本音です。
 でも、僕はそこでとんでもない一人の人物に出会ってしまったのです。
 それが、当時、ひの手話サークル代表だった「五十嵐敏夫さん」でした。
 彼から僕は、本当にたくさんのことを学びました。
 一言ではとても言い尽くせないけれど、一つだけ挙げるとしたら「サークルは運動だ!」ってこと。この言葉を僕は今「人生は運動だ!」って受けとめています。
 ○○運動ということじゃないんです。
 「黙って待っていても世の中何も変わらない。常に前に進んで、自分から世の中に働きかけること」イコール「運動」だと考えています。
 そしてそれは、「頭の中で考えているだけじゃ、ダメ! 自ら体を動かして、汗流して、泣いて笑って、前に進んでいくこと」イコール「運動」なのです。
 五十嵐さんとの出会いが、僕が手話を「続けてこられた」きっかけです。 

 (3)どうして手話を続けてこられたのか?(990817火)

 五十嵐さんとの出会いが「きっかけ」なら、この18年間、僕を後押しし続けてきてくれたのは、当たり前過ぎるけれど、ろうの友人です。
 そして、それは「聞こえる僕は、いつでも手話をやめられるけれど、ろうの友人は聞こえない限り、手話をやめることはできない。だったら僕が彼の友人である限り僕も手話をやめるわけにはいかない」そんな気持ちが僕を支えてきてくれたように思います。
 つい先日、たましろの郷資金プロジェクトでご一緒することになった港区のろうの女性から「手話をやめたいと思ったことはないか?」と聞かれました。「うーん、手話そのものをやめたいと思ったことはないよ」と答えました。
 僕は、昨年9月、11年半在籍し7年半代表を続けた手話サークルたんぽぽを辞めました。今は「手話サークル活動」は一切していません。でも、手話サークルはとても好きです。またいつかどこかで活動できたらいいなと思っています。
 手話通訳については、東京都の登録手話通訳者試験に3度落ちました。「手話通訳は難しすぎる、俺には向いてない、もうやめよう」 これは何度も思っています。 僕は、手話通訳者の専門性が向上し、それが手話通訳者の社会的地位の向上にもつながって欲しいと考えているので、僕のような「安易な受験者」は、もっと別の道を歩むべきではないか、とも思っています。実は単に「根性がない」だけ、なんですが。
 手話は、僕に自分の表現手段をひとつ増やしてくれただけじゃなく、手話を通じて僕の世界をずいぶん広げてくれました。
 僕にとって手話は「自分自身とのコミュニケーションの手段」であり、「他者とのコミュニケーション手段」であり、そして「社会とのコミュニケーション手段」なんだろうなあ、と思っています。

 (4)現在どのような活動をしているのか?(990822日)

 昨年、東京都世田谷区にある手話サークルたんぽぽを辞めました。
 たんぽぽを辞めた経過や、たんぽぽでの12年半に渡る活動を振り返ることは、いずれかの機会に譲るとして、現在の活動は、基本的に「かたつむりの応援」これが基本です。
 そしてそれは、かたつむりのボラというのが基本です。
 
 それに付随して、かたつむりの運営母体である「東京都聴覚障害者の生涯保障をめざす会」の会員にもなって事業報告会(総会)や勉強会に参加しています。
 
 また、「東京にも、ろう重複障害児・者の労働・生活施設を作ろう」ということで10年前から運動が続いている、「たましろの郷」後援会(後援会の発足自体は5年前から)の中に今年度新たに設けられた「資金プロジェクト」に全通研東京支部の代表として参加しています。
 
 さらには、9月12日その東京支部(東京都手話通訳問題研究会)の中の班活動としてスタートする「施設班」の発起人・世話人でもあります。
 
 「かたつむりボラ」「たましろの郷後援会・資金プロジェクト」「施設班」この3つが現在の僕の活動の柱です。

 (5)手話に関わる経歴(何をやってきたか?)

1981年
2月
ひの手話サークルに入会。手話と出会う。  まさかこんなに続くとは・・・
1983年度 ひの手話サークル運営委員長
日野市手話講習会事務局長 
実質2年目で代表だったんだねぇ。すごい時代だった
1983年
9月〜
都立日野高校手話クラブ講師 手話経験2年半で公立学校で手話教えてた。冷や汗もんだ
1984年
7月〜
立川高等看護学院手話クラブ講師(92年度まで8年間)  遠かったけど楽しかった
この年、1年遅れで社会人になった。
1985年度 東京都手話奉仕員養成講座専門コース修了(三田クラス・山田照子先生)  山田さんとの出会い
1986年度 日野市手話講習会初級クラス講師
4月世田谷に転居。手話サークルたんぽぽに入会 
この年結婚。会社が終わると速攻で日野まで通っていた。体力あった、若かった
1988年3月 ひの手話サークル退会 遠距離通勤ならぬサークルもついに限界に。7年間の活動でした
3月6日に長女誕生、耳の日大会の手伝いで三田の障館にいた
1989年度〜 たんぽぽサブリーダー
東京都手話サークル連絡協議会事務局員(92年度まで4年間。でも92年度は実質何もしていなかった) 
この年から、世田谷たんぽぽでの活動を中心に
都サ連事務局にいたこともあるんですねぇ、もう10年も前だ
1990年度〜 全通研東京支部会計(92年度まで3年間。でも92年度は実質的な会計の仕事がほとんどできず、支部役員の皆さんに大変な迷惑をかけた)  東通研のみなさんゴメンナサイ。会計決算をチャンと締められないまま総会を欠席し、大変なご迷惑をおかけしました。
1991年度〜 たんぽぽリーダー(98年9月まで7年半)  90〜91年度全国農協中央会に出向。リーダーの役をほとんどなし得ず役員にとんでもなく迷惑をかけた。
92年度出向から戻ったにも関わらず人事課配属で業務繁忙のため状況はさらに悪化。たんぽぽ・都サ連・支部と迷惑かけまくりだった
1993年
11月
たんぽぽリーダー3年目
たんぽぽ講演会
「ろう重複ってナニ?」花田さん&仲間達
91年9月に「法人設立準備会」発足いわゆる”法人化運動”スタート
93年6月に第1回「たましろの郷」設立をめざす集い
94年5月に「たましろの郷後援会」が発足した
1994年度 東京都手話奉仕員養成講座指導者コース修了(石川芳郎先生)
10月・雑居まつりにおける「たましろの郷・かたつむり支援バザー」スタート
手話通訳士試験合格(平成7年度登録637号)
人事課3年目で落ち着いたのか、東京都の手話講習会を受講。
手話通訳士試験も受験
雑居まつりのバザーって、もう5年も続いてるんだなぁ・・・素敵!
1997年度 たんぽぽリーダー7年目に突入 3年を一区切りと考えている僕は、2期6年は、リーダーの区切りと考えたが、後進を育てられずズルズルと次の3年に向けてスタート、「3期目の目標」を見つけるのが難しかった。”サークルにおける情報保障と手話通訳学習”がテーマと考えたが・・・
1998年
9月
年度途中ながらたんぽぽリーダーを降りると同時にたんぽぽを辞めました このへんの事情はいずれ・・・

 (6)手話以外の経歴(990827金)

 これは、書いてもつまらない。
 読んだら、なお一層つまらない。
 予め言っとくけど、読まない方がいい。

 年齢は、いつも「28歳」か「29歳」かどちらかを言うようにしている。
 誕生日は、8月15日覚えやすい。覚えてネ。そして、なんか頂戴。過ぎたばっかしだけど。
 戦争が終わった日。アジアが解放された日。(「少なくとも日本からは」という意味で)

 住所は、東京都世田谷区。とってもいい所なんだが会社の社宅住まい。リストラで、もうすぐ取り壊されそう。
 愛知県は豊田市生まれ。車の街だ。というと東京の人はすぐ「トヨタの車以外は走ってないんだって?」とか言うけれど、そのとおり。当然だ。
 もちろん私の愛車もトヨタのライトエース・ワゴン。とてもイイ車だ。(ホントはエスティマが欲しかったけど金がなかった。)でも、荷物はメッチャたくさん積めるし、運転しやすいし、スピードは出なくて安全だし(私は「ハンドルを持つと人が変わる」と言われている)、私がいつか運転してみたいと思っている国産車はマツダのRX−7くらいだ。ってなんでトヨタじゃないんだよっ!
 そうそうトヨタのアリストもレンタカー借りてみたいと思ってる。

 他に自己紹介っていうと、
 手話通訳士(ハハハ・・・)、
 労働組合の書記長(トホホホ・・・)、
 趣味は「音楽鑑賞」って、たまにCD買って来て、安っちぃラジカセで聞いてるだけだけど。
 現在の愛聴版は「イブライム・フェレール ウィズ ライ・クーダー」と「サウンズ・オブ・ブラックネス/アフリカ・トゥ・アメリカ」の2枚。
 読んでる本は「企業年金危機−河村健吉著(中公新書)」。仕事上必要に迫られて読んでる。
 好きな作家は鎌田慧さんと清水義範さんと佐江衆一さん。
 毎月「買ってる」雑誌は「アスキードットピーシー」これはパソコン雑誌と「技術と人間」どちらもほとんど「読んでない」<積読>状態が恒常化。それでいつまでたってもパソコンのことが分からないし、社会の仕組みにも疎い訳だ。
 そうそうスリーサイズは、って誰も聞きたかねぇか。ここ数年ウェイトオーバーに悩まされている。ベルトがキツイ。スポーツしなきゃ。汗かかなきゃ。
 フランス語を喋れるようになりたい。誰か教えて下さる方いませんか?

 やっぱり、くだらない自己紹介になってしまった。スミマセン−これでお仕舞い(~_~;)

 (7)名を名乗れ!

 ハハハ、というか、「自己紹介」とか言っておきながら、僕の「名前」がどこにも書いてなかった。
 改めて「自己紹介」します。木下耕一(きのした こういち)と申します。
 どっかのページで「木下」という名前を書いたような気もするのですが、トップページ近辺には、全く記載が無いようです。(イベントの案内などには「木下まで」となっているけど、それと「せたつむりホームページ」とどういう関係があるかは書いてなかったように思います。たいへん失礼しました)

 顔写真を載せるというのは、いかがなもんかと思うのですが、やっぱ一度は載せないとイカンのだろうなぁ、と思い、「名前」を白状するついでに、「顔」もオープンします。
 この顔を見て「もう二度とこのページは訪れない」ということがありませんように、と祈っています。(9月5日(日)お昼の12時10分頃撮影)

 (8)好きな作家は、(続き)

 好きな作家は鎌田慧さんと清水義範さんと佐江衆一さんと書いた。
 ルポライター鎌田さんとの出会いは、いつ頃の事だったのか、もう覚えていない。
 僕の生まれた町、愛知県豊田市にある、トヨタ自動車工場に組立てライン工として働いた体験を描いた「自動車絶望工場」だっただろうか? そこに描かれたまさに「絶望的な状況」が、僕には、実は「けっこう当たり前なこと」にように感じて、衝撃を受けた。
 僕の町の「トヨタ」では、仕事がキツイのは当たり前のことだったし、乾いた雑巾を絞るように下請け会社を支配するトヨタの「カンバン方式」は、親父の「誇り」でもあった。僕の親父は、トヨタ関連会社にいて「トヨタさんは、本当に厳しい」と愚痴をこぼしながらも、「だから世界でビッグスリーに肩を並べることができるのだ」と自慢した。
 僕は、へそ曲がりだったので、「車屋にだけはゼッタイなりたくない」と思って、農学部を選んだ。車なんて、走る凶器だし、排気ガス撒き散らして環境破壊の根っこだし、と思いながらも、車はトヨタに乗ってる。昨日テレビで見た水前寺清子と武田鉄矢が出演していた「教習所物語」みたいなドラマでは「車は夢も与えてくれる」ってセリフに涙流したりしている。(いかん「木のつぶやき」のノリになってる。
 鎌田さんから学んだことは限りない。とても、今夜書き切れないので、いずれの機会に。

 清水さんは、姉が紹介してくれた「蕎麦ときしめん」で出会った。あれは名作です。でも、名古屋を知らない人、そして名古屋弁を知らない人には、面白さも半減なんじゃないかと思う。でも、あれでドラゴンズ・ファンが確実に10人は減ってるような気もする。
 清水さんは、名古屋の人で、私とは「愛知県人」という赤い糸で結ばれている。
 今、毎晩寝る前に読んでいるのが、講談社文庫の「おもしろくても理科」 理系の人間には堪らない面白さ、と思うのですが、いかがでしょうか? この前に読んだ「虚構市立不条理中学校」は、愛知県の管理教育をストレート(?)に描いていて、スカッとしたり、腹がよじれるほどおかしかったりしたけど、今回の「理科」は、寝床で寝る前に読むのに最適。エッセイ集なのだが、ちょっとタイトルを紹介すると「慣性の法則」「時間よ止まれ」とホント楽しい(?)読み物です。

 いかん、ホントは佐江衆一さんのことを書こうと思って、書き始めたのに、つい道草が過ぎた。出会いは、1985年1月31日読売新聞夕刊の記事「車内暴力を考える−管理社会のひずみ噴出−豊かさの影、積もる不満」だった。会社に入って1年近く経った頃のことだ。

 (9)佐江衆一さんのこと

 この記事は、僕にとって衝撃的だった。会社に入って、やれ飲み会だ、やれテニスだ野球だと浮かれながらも、深夜に乗る地下鉄で、同じように「殺気だった自分」を感じていた。社会人になって、やっと一人前の「大人になった」はずが、なんなんだこのモヤモヤした不満は?そんなことを感じるでもなく、まさにここに書かれた記事のように車内でイライラしながら、押されたら押し返す、踏まれたら倍にして踏み返す、そんな毎日だったように思う。
 その後、佐江さんの著作を探していたものの、なかなか見つけられずに10年。月日の経つのはホントに早い。95年の4月号「新潮」に「黄落(こうらく)」が発表された。当時のやはり読売新聞夕刊に掲載された水田宗子さんの書かれた書評には次のように紹介されている。

 「新潮」掲載の佐江衆一氏の長編「黄落」ほど、ある家庭生活の現実を描いて暗く、逃げ場のない小説も近頃めずらしい。還暦間近の主人公夫婦は、八十七歳の老母の骨折をきっかけに介護中心の暮らしを強いられる。看取りまで続く予期せぬ難事。それは夫婦の絆を強めるどころか、断絶寸前まで追い込む。

 この小説も衝撃的だった。小学生の頃、同居していた祖母が転んだのをきっかけに半身不随となり、それ以来、私の家は、祖母の介護を中心にどんどん「たいへんなこと」になっていった。いつも父は怒っていたし、母も疲れ果て愚痴るばかり。当人の祖母のボケは、そんなことにお構いなく進行し、家庭はもう崩壊寸前だった。そんな当時を鮮明に思い出させるような、小説を佐江さんが書かれた。上記の書評に書かれているように本当にひたすら「暗い」、気の滅入る小説だ。
 その後、85年に書かれた「老熟家族」が96年に新潮文庫に入ったので、読ませていただいたが、やはり「黄落」の凄みは、感じられなかった。

 佐江さんの小説については、さらに86年に書かれた「横浜ストリートライフ」を読んだ。僕が、最近、ろう者の問題や「ろう重複」のことだけでなく、ろう老人の問題に関心が広がっているのは、佐江さんの影響があるように思う。老人介護の問題が、いよいよ僕自身にも現実味を帯びて迫ってきたのだ。父72歳、母63歳。
 今、毎日の通勤電車のなかで、96年に発表され今年の6月に新潮文庫に入った佐江さんの「老い方の探求」を読みながら、ため息をついている。そうか、70歳を越えると衰えが徐々に出始めるのかぁ。親父どうしてるかなぁ。

 (10)竹内敏晴さんも好きです。

 竹内さんは、作家ではありませんが、私が好きな、というか尊敬している人物の一人です。ちくま学芸文庫の紹介欄には「演出家」となっている。なんと、1994年第8回の関東の集い(「関東地区ろう重複者と家族・関係者のつどい」)でも、記念講演として「体が語る言葉」をテーマにお話しをされているのです。
 最近、読んで深く感銘を受けたのが「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫¥950・・・高い!)「ことばとからだの戦後史」(同¥920・・・やっぱり高い!)
 読んでからずいぶん時間も経ってしまって(「本棚」で紹介するつもりで、ずっと机の脇に積んであった)ので、本のカバーに書いてある文章を転載して本の紹介にしたい。

 教えると学ぶも、同様に、交わりあう一つの行為「共に気付いてゆく喜び」であるだろう。
 それぞれの子の独自の思考の筋道があって、それに乗らねば一切の鍵は開かない。
 少しずつそれに手がかりができ、やがて、ある瞬間に、ぱあっとイメージがつかめる。
 それに立ちあうのが「出会い」であり、「共に生きる喜び」であって、
 このとき教えると学ぶとは二つのことではない。(「教師のためのからだとことば考」)

 竹内敏晴さんとの出会いは「ことばが劈かれるとき」(1988年ちくま文庫。初出は1975年)だった。
 読んだ時、「なにこれ?こんなことってあるの?ことばっていったいなんなんだ?」って衝撃を受けたことは、良く覚えているんだけど内容は忘れちゃった。でも、毎週手話サークルで手話を教えながら「なんか違うなぁ」って思い悩んでいた頃(今も解決してないけど)だったので、「そうか、僕らの手話の勉強って、お互いに『言葉としての手話が届いてない』状態だったんだ」と気付かされ、”伝えたいって思いを、もっともっと大切にして、それを手話に乗っけて相手に届けよう”ってことを自分の手話指導のテーマに考えた。
 そんな頃から、もう10年になるんですね。当時たんぽぽで一緒だった竹中くん(コーラスシティという劇団でお芝居やってるヘンな奴。同い年)に教えてあげたらエラく感動されたことを思い出した。
 竹内さんの話しは、ホント衝撃的、お奨めです。

 (11)引っ越すことになりました。

 全く唐突に引っ越しをすることになりました。と言っても来年の3月ですが。
 「せたつむり」は、「世田谷かたつむりを応援する会」なので世田谷以外に引っ越したら看板掛け替えなきゃいけないじゃないか、と思うのですが、私の友人がつけてくれた大切な名前なのでこのまま続けようと考えています。「元世田谷かたつむりを応援する会」ということにしようかな。
 引っ越し先は、茨城県筑波郡谷和原村。そうなんです。「世田谷区」から「村」へ。これまで社宅の先輩たちが方々へ引っ越されるのを見ていて、「やっぱ都内は絶望的、神奈川も埼玉も高いしなぁ」とは思っていたのですが、私に買えるのは通勤2時間の茨城県でした。
 でも、強がり言うわけではありませんが、「いいところ」です。私はもともと田舎育ちなので、東京の「延々と続く家並み」というのがどうしても馴染めなかったし、「東京には空がない」っていつも感じていたし・・・。
 それにしても「できれば今より愛知県寄りで」と考えていた私でしたが、全く予想外の茨城へ引っ越すことになりました。いったいこれからどんなことが起きるんでしょうか?
 隣町の岡崎市にある高校に入るときに「豊田から脱出」し、東京の府中市にある大学に入るときに「愛知県から脱出」し、会社に入って渋谷区代々木上原にある独身寮に入るとき「東京へ出た」と思いました。今回は変な言い方ですが「茨城に帰る」って気がしています。 「ホッとした気持ち」がしています。
 というのは、これまでずっと「東京で歯を食いしばって頑張る」って気持ちが心の底にあったからのように思います。田舎から出てきた人は、みんなそんな気持ちがあるのではないかと僕は思っています。そんなこと思うの僕の世代までかもしれませんが・・・。東京へ出てきている以上「普通に暮らして、普通に楽しんで、普通の人生を終える」んじゃ意味がない。だったら田舎へ帰れば家だってあるし、友達だっている。楽して生きるのなら田舎へ帰るのが一番。それをあえて東京に「踏みとどまって」いるんだから、人の二倍も三倍も頑張って、僕だけにしかできない特別な人生を、存分に楽しんで、いつ死んでも悔いのない人生にするぞ、と考えています。
 それが「家を持った」ということで「取りあえず責任は果たした」みたいな気持ちになっています。それで「ホッとした」し、「ようやく帰れる」って感情が起きてるように思うのです。
 東京へ出てきたときも「よっしゃこれから」と思いましたが、谷和原村に対しても「なんか面白そうでワクワク」しています。まず物理的・空間的に違う。例えば「都レベルで集まる」と言っても今は全然ストレスないですが、茨城県で「県の集会」と言ったら水戸まで行くことになるんでしょうか?未知の世界というか、「想像を絶する世界」じゃぁーと勝手に面白がっています。(きっと思いっ切り不便で大変なんでしょうけど・・・)
 茨城県の皆さんこれからよろしくお願いいたします。

というわけで、自己紹介かたがた久しぶりに顔写真を掲載します。
これは、今年の夏にかたつむりの海水浴に参加した時のスナップです。
「地元のオッサン」という風情ですが、かなり実物に近いものがあると思います。
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